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サーチナニュース 2013/10/30(水) 13:34
http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2013&d=1030&f=politics_1030_003.shtml
腐敗撲滅に励んだ共産党トップが腐敗で失脚=中国革命聖地・遵義
中国共産党中央紀律委員会は28日夜、同党の貴州省遵義委員会の廖少華書記が重大な紀律違反の疑いで取り調べを受けていると発表した。
遵義市は、中国共産党が国民党の軍事攻勢に耐え兼ね、拠点にしていた江西省から中国北西部に向けて脱出した「長征」の途上、1935年1月に開催された共産党の「遵義会議」で知られる“革命聖地”だ。
遵義会議は、それまで党を仕切っていたソ連留学組を排し、毛沢東が権力掌握の基盤を作ったことで、その後の党と中国の命運を決めたともいえる重要な会議だ。
廖書記は1960年11月生まれの53歳。
共産党の貴州省委員会常務委員でもある。
西南交通大学で鉄道建設技術を学び卒業。
鉄道技術者として仕事をしたのちに、中国共産主義青年団の貴州省委員会書記などを務めた。
貴州省計画発展委員会副主任、同省六盤市市長、同省黔東南ミャオ族トン族族自治州の共産党委員会書記などを経て、2012年7月に遵義市委員会書記に就任した。
遵義市で書記に就任して以来、重要な「反腐敗会議」を9回にわたり主宰し、「重要講話」を発表した。
2013年6月6日からは、同月を全市と党の「廉政のための警示教育月間」として思想面の向上と反腐敗に取り込んだ。
「警示教育月間」の活動体育では、市と党の指導幹部に対して、
「思想の防御線を堅固に築き、欲望の関門とせよ」、
「権力は正しく使い、清廉潔白を一貫して保ているよう自らを律せ」
などと訓示した。
また、刑務所に足を運び、汚職などで有罪となった受刑者に「犯罪に至るまでの経緯やかつての思想面での問題点」を聴取。
「検察機関の記録も呼んだが、自分では隠しおおせると思っても、いつ白日のもとに暴露されるやもしれない。
犯罪の道を歩んでしまったら、前途があるかどうか、ちょっと考えてみればよい」
などと述べた。
廖書記は
「事実に基づき真実を求める。
科学性(合理性)を尊ぶ。苦難に耐えて業を起こす。
困難を排除し前進に努める」
ことを旨とする「遵義精神」を強調した。
個人としてはは派手さのない性格。
宴席でもワインをたしなむ程度で、大酒を飲んだりはしなかったという。
住民からの意見や問い合わせに小まめに回答するなど、インターネットの活用にも力を入れていた。
ただし、貴州省のある公務員は、
「黔東南ミャオ族トン族族自治州時代に、業績はさほどでもなかった。むしろ、やや劣っていた」
と、廖書記を批判。
同公務員によると
「それにしても、(腐敗の疑いで)取り調べを受けるとは、思いもしなかった」
という。
具体的な容疑は明らかにされていないが、「重大な紀律違反」は通常、不正な金品の授受、極端な異性関係の乱れ、職権の乱用などを指す。
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サーチナニュース 2013/10/30(水) 13:26
http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2013&d=1030&f=column_1030_016.shtml
遵義会議…運命決めた逃亡中の権力掌握<2分でわかる中国用語>
遵義会議、中国共産党中央が1935年1月15日に貴州省遵義県(現遵義市)で開催した会議。
「中央拡大会議」とされるが出席資格などについては、よく分からない面がある。
会議の決定事項も1949年になってから発表されており謎(なぞ)の部分も多い。
中国共産党1931年に中国南部内陸にある江西省瑞金を首都として中華ソビエト共和国を樹立。
同党支配の大拠点としたが、国民党の攻撃を受けた。
第4次までの攻撃ははねのけたが、5回目の大攻勢で国民党は、共産軍が得意とするゲリラ戦を封じるために、トーチカを築きながら少しずつ前進する戦術を採用。
共産党側は窮地に陥った。
共産党は中華ソビエト共和国の放棄を決意。
1934年10月までに国民党軍の包囲を突破し、西方に脱出した。
共産軍は迂回や周回なども繰り返しながら、中国西部を北上し、1936年6月に陝西省延安に到着(一部はさらに遅れた)。
この退避行あるいは逃走は「長征」と呼ばれる。
名は勇ましいが、実際には惨憺(さんたん)たる逃避行で、陝西省延安まで1万2500キロメートルを走破するまでに、出発時に8万以上あった兵力は数千人までに減っていた。
遵義県は長征の途中に共産党が立ち寄れた唯一の、街らしい街だった。
共産党が江西省で失敗した大きな原因のひとつに、ソ連留学組が主導権を握り、中国の実情を無視して「ロシア革命に範を求める教条主義的な革命運動」を推進したことがあった。
毛沢東はソ連方式の革命や戦術を批判し、自らの方法を貫こうとして、事実上の「失脚状態」だった。
しかし「遵義会議」で共産党運営の主導権を握ることに成功。
同会議時点で毛沢東よりも高い地位にあった周恩来は自己批判し、毛沢東を支持。
まだ権力基盤が弱かった毛沢東に協力し、毛沢東が絶対的な権力を握った後も生涯、“献身的に仕えた”。
中国人ならだれしも知っている“美談”だ。
遵義会議の出席者には、毛沢東、周恩来、劉少奇、朱徳、トウ小平、楊尚昆、林彪、彭徳懐、陳雲、聶栄臻、張聞天、王稼祥、凱豊、トウ発、李富春、劉伯承、李卓然、博古、オットー・ブラウン(コミンテルン派遣のドイツ人軍事顧問)、伍修権(ドイツ語通訳)などが名を連ねている。
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遵義会議をきっかけに共産党内の権力を掌握することになったが、晩年に「10年の災難」と呼ばれる文化大革命を発動した毛沢東に対しては、複雑な気持ちを持つ中国人も珍しくない。
ただし、中国人の多くは毛沢東を
「晩年に大きな過ちを犯したが、毛沢東がいなければ中国は日本や欧米列強に屈服する状態が続いていた」
と評価していると言ってよい。
周恩来については「常に人民のことを思っていた」、「人徳のある宰相だった」との評価が高い。
中国人の平均的な気持ちでは、毛沢東に対しては「畏敬」、周恩来に対しては「敬愛」と言えるだろう。
ただし、文化大革命期に迫害を受けた人からは、まったく異なる評価が聞かれる場合もある。
「毛沢東はまだ許せる。自分の信念にしたがったまでだから。
周恩来は自らの考えとは裏腹に、保身のために文革に反対しなかった。
毛沢東より悪質だ」
といった見方だ。
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「WEDGE Infinity」 2013年10月30日(Wed)
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/3300?page=1
中国最大の危険は国内にあり!
天安門事件の切り込み隊長が警鐘を
大衆に背を向けた政権は存続しえない。
このところ中国の習近平政権は大いに危機感を持って党の大衆路線教育実践活動と称してあらゆる部門を挙げて党と庶民の関係改善を求める政治活動を行っている。
それは軍においても同様だ。
この数カ月あらゆる部門でプロパガンダと教育活動が展開されるようになっている。
これは政府や党、軍と大衆の関係で齟齬が生じている裏返しでもあり、習政権の危機感を示すものでもある。
■天安門事件の評価と直面してきた軍将校
今回はこうした危機感を軍で共有するある将軍による文章を紹介しよう。
薄煕来事件によって激震に見舞われた成都軍区の艾虎生副司令員による「最大の危険に対する考え方」『解放軍報』(10月3日付)という文章である。
興味深いのは成都軍区の指揮官だという点だけではない。
彼は天安門事件の際に民衆の暴動鎮圧に戒厳部隊の連隊長として参戦し、切り込み隊長として混乱を極めた天安門広場付近にいち早く乗り込んだ経験を持つ。そして天安門事件をきっかけに出世を遂げてきた。
このような彼であるから常に天安門事件の評価と直面してきた軍将校として、中国社会における軍と大衆の関係について一家言あるに違いない。
民衆に銃口は向けられないと「歴史の罪人には絶対にならない」と出動を拒否して軍事裁判で禁固刑を下された徐勤先将軍とは対照的な人生を歩んできた。
そんな将軍が「中国最大の危険は国内にある」と警告しているのだ。
彼が言う「最大の危険」とは何か耳を傾けてみよう。
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【『解放軍報』10月3日付・意訳】
大衆と密接な関係が、我々共産党最大の優勢な点であり、民衆から離脱することが政権を担ってから最大の危険となっている。
共産党設立の日から、どんな時期でも、どの指導部でも大衆との密接な関係を維持することが常に共通認識となってきた。
我々の党は系統的に大衆路線を確立してきただけでなく、系統的な大衆工作のシステムを確立してきた。
ではなぜ大衆から離脱するような現象が依然存在し、時に深刻なのか。
こうした問いにうまく答え、解決してこそ「最大の危険」から抜け出すことができるだろう。
党と大衆に距離が生じたのは次の5つの理由による。
1].党幹部の振舞い(庶民の代表であるはずが、あたかも自分が主かのように振舞うようになった)
2].社会階層の変化(農・工・商・学・兵というかつての単一的な社会構成が、
「改革開放時代」になって異なる職業、異なる身分、異なる社会階層が生まれ、人々が求める利益が多様化した)
3].道徳の堕落(市場経済のマイナスの影響として、信仰を失う人が出現)
4].高度成長による社会均衡の喪失(失業や経済優先政策で乗り遅れる人が出た)
5].情報化社会でデマが出現(虚構の社会が現実社会を揺るがし、悪意を持って世論をミスリーディングするようなデマが力を持つようになった)
■「大衆が我々の生死を決める」
「最大の危険」とは何か。
第1に、戦争時代の危険は敵によるものだったが、現在の危険は大衆から離れ矛盾の性質を取り間違えた執政理念の歪曲にある。
一部の党指導幹部が手にした権力を既得権益とみなせば、党の理念に背くことになる。
権力を求め、自分への利益誘導が官吏の目的となるなら民衆と対立することになる。
第2に、計画経済の弊害は「大釜の飯を食う」という考えに現れている。
平均主義の「大釜の飯」では思想と体制が硬直化し、袋小路に入り込んでしまった。
第3に、長期政権による内在的危険だ。
これは高級幹部によるものだ。
党のイメージに影響を与えることを警戒し、防止しなければならない。
習総書記が指摘したのは、問題は内部、高級幹部の身から生じるということだ。
高級幹部の地位は高く、権力が大きいので事が起きると小さい問題ではすまない。
彼らへの信頼度の低下が、党への信頼に影響を与える。
ここから党のしっかりとしたスタイルを作り上げ、指導幹部が自分から着手するということがどれだけ重要かが分かろう。
大衆は時代の主人公かつ社会歴史進歩の主人であって、我々の生死を決めるのだ。
まさに大衆(要素)が「最大の危険」にいかに対処するかの出発点であり、立脚点でもある。
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【解説】
軍将軍が政権の基盤は大衆に依拠するものというごく当たり前のことをわざわざ強調しなければならないほど、共産党は大衆からかけ離れた存在になってしまったのだろうか。
中国では政府の官舎など公的な建物に「人民のための奉仕する(為人民服務)」という看板がでかでかと掲げられている。
しかし、その実、多くの高級幹部たちが腐敗に手を染め、「自分たちに奉仕する」のが実態だろう。
そうでなければ汚職額が何十億、何百億円と信じ難い金額に上ることはないだろう。
石油部門は言うまでもなく、軍も利権を持つのは、例外ではなく、兵站を司る総後勤部の高級指揮官(谷俊山副部長、中将)さえも汚職で更迭された。
引退したばかりの事実上の軍トップ(中央軍事委員会副主席)だった徐才厚将軍も汚職容疑の憶測が出ている。
国を守るべき軍人たちはいったいどうしてしまったのか。
特権をかさにきて利権集団に成り下がってしまったのではないか。
石油にしろ、軍需産業にしろ、こうした業界は中国では莫大な利権を有し、民衆からかけ離れたところに君臨しているのだ。
もともと解放軍は、日本軍や国民党軍に対峙してゲリラ戦を戦う中で民衆の支援を獲得する必要があった。
そのため「三大規律八項注意」と呼ばれる規定を制定し、兵士一人一人が民衆との関係改善を心に刻んできた経験がある。
ところがその出自を忘れ、特権階級の既得権益集団になってしまったのか。
軍と民衆の摩擦の拡大は民衆の軍への不信を象徴する。
軍ナンバーをつけた車が各地でいざこざを起こし、大衆が怒りを爆発させ、暴動も頻発している。
軍が軍用ナンバーを取り換え、高級車の使用を制限する措置をとり、警備条例を改定したのはそのためである。
■軍の立場から習政権の大衆路線を援護
共産党による軍の統制においてトラウマとなっている天安門事件(1989年)からはや四半世紀が経とうとしているが、事件の再評価が行われる気配がないのは指導部で天安門事件への対処が評価され昇進した者が少なくないためだ。
軍でも功績が評価され出世してきたものが上層部入りし始めている。
艾将軍はその代表格だ。
そのため本文は天安門事件時に切り込み隊長として武勇を鳴らした彼が、今度は民衆の側に立って党の汚職を糾弾しているというわけではなく、軍の立場から云々して習政権の大衆路線を援護しているに過ぎない。
ただもしこれが、石油閥の周永康などの追い落としを視野に入れた「虎狩り、ハエ叩き」(大物の汚職取り締まることの比喩)であれば話は別だが、そのような意図の有無はここからは読み取れない。
こうした軍内部で天安門事件出世派とでもいうべき幹部たちの出世は対治安維持に対する強硬派の主張を正当化している。
天安門事件同様の騒乱が起きれば再度発砲する、と息巻く軍人もいるようだ。
集団騒擾事件が年間18万件ともいわれる今日、軍の内部引締めを強化し、汚職を撲滅すると同時に治安維持を図るという二つの一見相容れない目標達成のため大衆の信頼回復に努めるという習政権の方策は無難だ。
しかし、その実、党最高レベルで財産公開を拒む現状での政治思想プロパガンダや口先ばかりの改革や民衆へのラブコールが民衆の心に響くと思えない。
さらに日本にとって大事なポイントを忘れてはいけない。
尖閣諸島領有権の問題である。
日中間で重要な懸案だが、中国にとってこの問題は国内のナショナリズムや汚職、政治改革といった様々な喫緊の国内課題の延長線上にある問題なのだ。
尖閣問題で活発になっている石油閥や軍の活動を見ても明らかだ。
艾将軍の懸念は国際化によって見えにくくなっている問題の本質を再確認させてくれるものだ。
弓野正宏(ゆみの・まさひろ)
早稲田大学現代中国研究所招聘研究員
1972年生まれ。北京大学大学院修士課程修了、中国社会科学院アメリカ研究所博士課程中退、早稲田大学大学院博士後期課程単位取得退学。早稲田大学現代中国研究所助手、同客員講師を経て同招聘研究員。専門は現代中国政治。中国の国防体制を中心とした論文あり。
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