2013年10月7日月曜日

ウラジオストックは「中国固有の領土」か?:始まった極東奪還闘争

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●1969年2月に発生した中ソ国境の珍宝島(ソ連名=ダマンスキー島)をめぐる紛争で、珍宝島に進入したソ連国境警備隊員(装甲車の上)を連行する中国国境警備隊兵士(手前の後ろ姿)。翌3月には両国による武力衝突に発展した【AFP=時事】


jiji.com 
http://www.jiji.com/jc/foresight?p=foresight_10501

ウラジオストクは「中国固有の領土」か?
=始まった極東奪還闘争

 9月にアジア太平洋経済協力会議(APEC)首脳会合を開催したロシア極東のウラジオストクは、2年前の2010年、市の創設150周年を盛大に祝った。
 ウラジオストクはもともと中国領で、1860年の北京条約によりロシア領に移管。
 帝政ロシアはこの天然の良港に、「極東を制圧せよ」を意味するウラジオストクという名前を付けた。
 だが、中国の新しい歴史教科書には、
 「極東の中国領150万平方キロが、不平等条約によって帝政ロシアに奪われた」
との記述が登場した。
 中国はある日突然、ウラジオストクを「中国固有の領土」として返還を要求しかねない。
 中露間で歴史的なパワーシフトが進む中、ロシアにとって、尖閣問題は他人事ではない。

■未解決はグルジアと日本のみ

 プーチン大統領は2004年ごろから周辺諸国との国境画定を重視し、次々に成果を挙げてきた。
 ロシアは14カ国と陸上国境を接し、ソ連崩壊後国境画定問題が積み残されたが、プーチン政権はこれまでに、中国、カザフスタン、アゼルバイジャン、ウクライナなどと国境を画定。
 バルト諸国ともほぼ合意した。
 ノルウェーとも懸案の海上国境を画定させたし、北朝鮮との17キロの国境線も画定した。

 プーチン大統領は05年、国民との対話で、北方領土問題の質問に対し、
 「われわれはすべての隣国とのあらゆる係争問題を解決したい。
 日本も含めてだ」
と述べたことがある。
 大陸国家のロシア人にとって、国境が不透明なことは不安感、焦燥感を生むようだが、石油価格高騰で政治・社会が安定したことから、困難な国境問題の調停に乗り出す余裕が生まれた。
 周辺諸国で国境線が画定する見通しがないのは、
➀.南オセチア、アブハジアの独立を承認した対グルジア国境、
②. それに日本との北方領土問題
だけだろう。

 近隣諸国との国境問題で、プーチン政権はまず中国との懸案に取り組んだ。
 中露国境問題は長い歴史を持ち、1960年代末にはウスリー川の川中島の領有権をめぐって中ソ両軍が武力衝突し、数百人が死亡。
 中国が圧倒的なソ連軍の兵力を前に敗北し、以後、中国は米中接近に動いた。両国は80年代後半のゴルバチョフ時代に国境交渉を再開。
 91年に中ソ国境協定を結んで東部国境をほぼ画定、94年にエリツィン政権との間で西部国境も画定した。
 しかし、極東のアルグン川のボリショイ島、ウスリー川のタラバロフ島、大ウスリー島の3つの川中島をめぐる総面積375平方キロの境界線だけが未画定で、積み残された。

■領土折半で合意

 プーチン政権はこの3島の帰属交渉を中国側と秘密裏に進め、04年10月、北京での中露首脳会談で、
(1).タラバロフ島は中国領
(2).大ウスリー島とボリショイ島はほぼ2分割
――という形で電撃的に決着。
 国境追加協定が締結され、05年に批准書を交換。
 08年に議定書に署名し、係争地の半分が中国に引き渡された。

 プーチン大統領は合意に際し、
 「中露の40年にわたる国境問題に終止符が打たれた。
 両国は英知を集め、相互利益に沿って、互いに受け入れ可能な決断を下した。
 専門家レベルでは対立した問題を首脳間で政治決着させた」
と自賛した。
 その後、この折半方式はカザフとの国境やノルウェーとの海上国境でも適用されたが、ラブロフ外相は
 「日本との国境問題は中露とは歴史的経緯が異なり、適用されない」
としていた。

 中露交渉は極秘裏に進められ、線引きの詳しい地図も公表されていない。
 どちらが先に折半を言い出したのかなど、交渉の内幕も不明だ。
 ハバロフスクなどで、領土割譲への反対デモが議会や住民の間から出たが、プーチン政権は押し切った。
 極東では、「中国側がプーチン政権幹部に賄賂を贈った」といった噂も流れた。
 当初は、相互譲歩が喧伝されたが、ロシアは領土を半分割譲し、中国も半分しか獲得できなかった敗北感が残り、近年は互いに言及を避けている。

 ロシアが長年実効支配してきた領土を半分中国に割譲したことは画期的だが、
 あえて譲歩した最大の理由は「21世紀の超大国」である中国との紛争の芽を事前に摘んでおきたいとの思惑によるものだ。
 国境を未画定のまま放置すれば、中国はいずれ、極東への途方もない領土要求を持ち出しかねない。
 中露国境を早めに画定させた方が得策とロシアは考えたようだ。

■中国が兄貴分

 04、05年当時は中露蜜月が最高潮だった時期。
 年に5、6回首脳会談が行なわれ、初の合同軍事演習も実施された。
 イラク戦争を受け、中露は反米外交で結束を強化。
 エネルギー協力も進み、領土問題決着へのモメンタムがあった。
 逆に言えば、両国関係が下り坂になりつつある現在なら、国境交渉の決着は難しかっただろう。

 中露間では、
●.中国が資源を買って製品を売る事実上の植民地貿易、
●.ガス輸出交渉の難航、
●.中国によるロシア製兵器のコピー生産、
●.中央アジアをめぐる主導権争い、
●.中国人の極東シベリア不法滞在、
●.中国軍増強
など水面下の対立が進んでいる。
 何よりも、中国経済の飛躍で、中露の力関係は大きく変わり、昨年の中国の国内総生産(GDP)はロシアの約4倍に達した。

 過去数世紀、中露関係ではロシアが常に兄貴分で、中国を指導してきた。
 中国共産党自体が、モスクワに本部を置いたコミンテルン(国際共産党)の指示で誕生したし、国共内戦での勝利も旧満州に進駐した旧ソ連軍の支援が大きかった。
 新中国成立後、ソ連人顧問団が中国の社会主義建設を支援した。
 だが、ソ連共産党は壊滅し、党員13人の会合から始まった中国共産党は、党員数8000万人の巨大な一党独裁政党に膨張した。

 いまや
 「中国が兄貴分で、ロシアは妹に成り下がった」(タブロフスキー・ルムンバ大学教授)
といわれる。
 二国間関係でロシアが自らの主張を貫徹するのは困難な情勢で、ロシア側には屈辱感、焦燥感が強い。
 そして、この不均衡な構図は今後さらに拡大し、ロシアが再び兄貴分になることはあり得ない。

■「極東中国人自治区」も

 中露間でパワーシフトが進む中、過疎の極東は次第に中国の影響下に置かれつつある。

 中国脅威論をしばしば報道するロシアの週刊紙「論拠と事実」(8月14日号)は、
 「極東の中国人は10万-20万人とされるが、実際にはその何倍もいるとの見方がある。
 ウラジオストクの店に並ぶ野菜や果物は、中国人が近くのレンタル農地で栽培し、生産しているものだ。
 ウラジオストクのスポーツ通りの中国人街には、中国人が溢れている。
 極東経済は中国なしには成立しない。
 中国人はスーパーや店を買収し、放置された建物を修復し、中国人コルホーズを組織している。
 気づかれないうちに、中国人は全沿海地方を支配しているのだ
と書いた。

 ワレーリー・コロビン地政学センター所長は同紙(8月29日号)に寄稿し、
 「中国との領土問題は決着し、国境紛争の種はないとはいえ、極東からのロシア人流出と中国人流入は続く。
 中国人は人的ネットワークで市場や領土を支配する術を心得ている。
 極東の幾つかの地域では、中国人の人口が過半数に達している可能性もある。
 中国人は同化せず、家族を呼んで子供を産む」
と述べ、「極東中国人自治区」が創設される可能性に警告した。

 ソ連崩壊時に800万人を超えた極東の人口は昨年の統計で626万人まで減少した。
 これに対し、隣接する中国東北部の人口は1億3000万人に達し、極東への流入が進む。

 プーチン大統領は
 「極東の外国人人口はまだ危険水域に達していない」
としているが、中国人は極東の行政府幹部を買収し、ビザ取得や土地のレンタルを進めている。
 現状では、極東は中国経済に飲み込まれつつある。

 そして、その先には極東は本当にロシアの領土なのかという疑問が生じるかもしれない。
 極東の歴史を振り返ると、ロシアの領土保有の正当性は疑わしい。
 沿海地方など150万平方キロの土地は、アイグン条約(1858年)、北京条約(1860年)などの不平等条約によって、帝政ロシアが弱体化した清国から奪い取ったもので、帝国主義的領土編入といわれても仕方がない。

 中国のネット上では、ロシアに領土要求する愛国主義的論調があふれるが、歴史教科書にその記述が載ったことは、
 中国がロシアに対して、壮大な失地回復闘争に着手した
といえよう。

by 名越健郎 Nagoshi Kenro
拓殖大学海外事情研究所教授




【トラブルメーカーから友なき怪獣へ】



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